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多里村の農民大挙竹槍を携え…矢戸に大集合(1871年10月)

「日野郡史上巻」を見ています。

国立国会図書館デジタルコレクションにある「日野郡史・上巻」を眺めています。

1871年秋に、多里の農民がかかわる一揆というか大騒動があった、との旨が第209頁に載っていました【下図】。

多里から笠木の倉庫へ年貢米を納めさせる計画…倉庫も出夫して造れと…。

事の発端は、多里の地元で収めていた年貢米を、笠木まで運ばせようとしたことのようです。その上、笠木の倉庫も出夫して造れということのようでした。

【願いは聞き届けられたとの旨、「日野郡史上巻」第209頁部分:国会図書館デジタルコレクション】
【願いは聞き届けられたとの旨、「日野郡史上巻」第209頁部分:国会図書館デジタルコレクション】

「乍恐奉欺願覚」(上菅 宇田家文書)は5つの嘆願があったことを示しています。後続の文書で、そのうち二つが聞き届けられたのが示されています。
「乍恐奉欺願覚」は、「恐れ乍(なが)ら、嘆願(たんがん)奉(たてまつ)る覚え(書)」というようなことでしょうか…自信ありませぬ。
事の顛末は、同巻「明治四年○訴顛末」(○=不詳)などのほか第218頁まで、載っていました。

恥ずかしながら、爺が簡記してみた…。

笠木に米蔵を建てるので、そこに年貢を納めるよう命じられた関係村のひとつが多里。その農民500人程は、その中止嘆願で1871年10月12日に出発、山上などの農民と糾合し、行動した。

原因は、郡役所が笠木に倉庫を建設し、菅沢、印賀、阿毘縁、川上、多里の5村が納めるよう計画、その倉庫も関係村から出夫させ造るというもの。米俵の作り方、量目なども決められた「新制度」では完納できないとのこともあり、農民は「愁訴」に及んだ。

その結果、年貢米を収める場所はこれまで通り「地倉」とする、コメの値段は隣国相場を平均し決める、の二つが認められた。1891年10月16日、いったん解散。しかし、指導者が入獄させられるなどのことがあり、米を納めないなどの騒動もその後あった。

多里から山上(笠木)に米を運ぶのは、難儀な郡役所の計画だったかと…。

地元の方なら、150年ほど前の道路事情を考えれば、この計画が無理そうなことはすぐさまわかるかと思います。その上、米俵が規格に合致してないとなれば、したてなおしを命じられる可能性もあり、米作りに希望が見えない、というようなことだったんでしょうね。

なお、日野郡内5か所に作られた倉庫「群倉」は用なしとなり、小学校の校舎として活用されるようになりました。

「日野郡史上巻」、当然ながら正字で、習っていない漢字がいっぱいあります。また「候文」(そうろうぶん)で「白文」のため、返り点もなく、読むのに難儀します。間違いなどお気づきでしたらご教示ください。